義父の葬儀から数日が経ち、仕事復帰も果たしたけれど、全くの役立たずで、困ってしまう。
自分は跪いてしまっていても、仕事は待ってくれない。
期限をきって作業しているものもあれば、相手がいる仕事もある。
大きな行事も控えている。
気持ちを切り替えて、シャッキリしなくては、、、そう思いながらも、気がつくとため息をついて、ただぼんやりと書類を眺めてしまっている日々だ。
義理の関係ではあるけれど、「お父さん」のことは、私なりに慕っていた。
義理の母が亡くなってちょうど3年と1週間。
寂しかったのだろうか…「お父さん」は、「お母さん」のところへ逝ってしまった。
昨年の秋、レントゲン検査で肺癌の疑いあり、と分かってから4ヶ月ほどの、あっという間の闘病生活だった。
「お母さん」が亡くなった後、私は 残された「お父さん」と私の夫を繋ぐ助けになればと、日曜日の晩御飯を作りに行って、普通に家族で食べる事を習慣にしていた。
男同士というのは、放って置くと疎遠になりがちなように思えたからだ。
もちろん、野球観戦で作れず、パスした日だってあるけれど、けっこうちゃんと頑張れたと、自分では思っている。
私は、人との距離を縮めるのがうまくない。
どこまで近寄っていいのか、いつも恐る恐るして遠慮がちになってしまう。
これには私の生まれ育った環境によるものが大きいのだけれど、自覚していても、改善は容易でない。
人に甘えたり、相談したり、頼ったり…こういった事がもっとできる性質だったらなぁ、と、いつも思う。
「お父さん」は完治したとはいえ、喉頭がんで声帯を摘出して声を出せない方だった。
お嫁に来たときも、「僕、こんな体だけど…」と、おっしゃった。
「わたしこそ、こんな性格ですけど…」それは、心の中で返しておいた。
12月、最初の入院では抗がん剤治療がとても上手く行き、予定より早く、1週間で退院して、とてもうれしかった。
12月23日は、ひと足速いクリスマスと退院のお祝いで、いつものように普通にご飯を食べた。
皆でスペアリブを食べて、クリスマスケーキも美味しいねって、にこにこしながら食べて、幸せだった。
年末年始も普通に皆で過ごしたし、2回目の入院の前の日曜日も、いつもどおりにご飯を食べた。
「明後日からまた1週間入院だね、なるべく顔を出すから、頑張ってきてね」
そう言って別れ、お父さんはそのまま自宅に戻ることはなかった。
私の夫は人工透析を受けているから、お父さんに会いたくても、週のうち3日は会いに行くことができない。
だから、私がお父さんに会いに行って、その日のお天気だとか、外の様子だとか、夫の事を少し話して帰ってくる。
「明日は、○○ちゃん(夫)と一緒に来るね。お大事に」
お父さんは、手を上げて返事をする。
夫が帰宅すると、今度はお父さんの様子や、こんなことを話したんだよ、と報告する日々だった。
2度目の入院をした日、肺に水が溜まっていて抗がん剤治療に入れないと言われた。
まずは水を抜いてから治療に移りましょう。
肺に水が溜まっている状態というのは、溺れているのに近いのでは、と思う。
お父さんの呼吸は、とても苦しそうだった。
体から水を抜くのは、体にすごく負荷がかかるようで、夕方お見舞いに行くと、お父さんはいつもだるそうだった。
それでも、私の雑談に時々笑いながら付き合ってくれる。
お父さんの体は見る間に弱っていった。
ある時、私が1人でお見舞いに行くと、とても苦しそうにしていて、とても弱弱しく見えた。
「何か手伝えること、ある?」
私がそう聞いても、お父さんはいつも「大丈夫」と応えるが、その日は違った。
身振り手振りで、
「そこにあるライトで喉をみてくれ」
そう伝えてきた。
お父さんは声帯を取っているから、喉に穴が空いていて、そこで呼吸している。
どうやら痰が絡んで息苦しいらしく、しきりに「取ってくれ」と言う。
私は急いでライトで喉を照らしたけれど、よく分からなかった。
普段、そこを見たこともなかったから、声を出す補助器具が見えても、それが正常な位置にあるのかすら分からない。
しかし、とりあえず痰は見えなかった。
「こめんねお父さん。奥にあるのかな?良く分からない。普段、なんともない時にも見ておけばよかったね。今、どこがまずいのかも良く分からない。ごめんなさい。」
結局私は、巡回して来た看護士さんにお願いして、痰の吸引をしてもらうしかなかった。
役に立てずにガッカリしながらも、「何かあったらすぐナースコールして」と言うと、お父さんは「いや、呼ばない」と言った。
その時、面会時間をとうに過ぎていたので、「ちゃんと呼んでよ。私はそろそろ帰ります。また明日ね。明日はスッキリしているといいね。お大事に」そう言うと、いつもと違って微妙な顔をしてこちらを見た。
何か言いたいのかな?と思いながらも、隣にいた看護士さんに「我慢強い人なので、時々声を掛けてもらえませんか」そうお願いして、帰宅した。
気のせいだろうか。
その次の日から、夫と一緒にお見舞いに行って暇乞いをすると、帰り際に何か言いたげにこちらを見る。
「お父さん、私はまた明日も来ます。お大事にね」
そう言うと、にっこりと笑ってくれるようになった。
お父さんの体調はどんどん悪くなっていく。
病院に呼び出され、医師から余命1週間程度との宣告を受けた日、夫が電話してきた。
「いつもどおり、親父の顔を見に行ってやってくれ」
どんな顔をして行けばいいのか分からなかった。
しかし、私は笑顔で、いつもどおりに天気の話をした。
そして、今日が私の誕生日なのに、年齢を慮って誰も触れてくれなくなったと文句を言った。
でも、今日は事務所で頂き物のシュークリームが当ってラッキーだったと自慢すると、お父さんは笑った。
「また明日、○○ちゃんと来るから。お大事にね」
待っててね、と心の中で付け加えて、病室を出てから、泣いた。
夫婦二人でお見舞いに行くと、夫はいつも15分も居ないであっさりと帰る。
もっと、ゆっくりしてけばいいのに…
いつも、そう思っていた。
男の人は、意地っ張りで、強がりな生き物だと思う。
余命宣告を受けた晩、夫は泣きながらこう言ったのだ。
「明日、もう、我慢しないで、ゆっくり親父と話したい」
病室にゆっくりしたり、普段行かない自分がひよっこり顔を出すと、お父さんが不安になるから、我慢していたというのだ。
「もうそんなの気にしないで、話せばいいでしょ!いっぱい居ればいいよ!!」
そう、返すしかなかった。
次の日、二人とも一切残業をしないで、すぐにお父さんのところへ向かった。
面会時間終了まで1時間半ある。
思う存分話せばいいんだ!
そう思った。
お父さんは思ったより元気で、自分でベットの角度を調整したり、ストロー付きのカップでお茶を飲みながら、私たちの雑談を聞いてくれた。
しかし、途中で何度も腕時計を見る。
なんだろう?不審に思っていると、こう言った。
「もう帰れ。俺は大丈夫だから」
「うん、分かったまたな。頑張れよ!」
「明日も来ます。お大事にね!」
そう言うと、お父さんは片手をあげて返事をした。
この後、いよいよ危篤になった日、夫と、夫の妹と私の三人で、お父さんを見送った。
声が出ないお父さんの言いたい事がなかなか分からず、もどかしく思いながらも、最後の時間をすごした。
しかし、起きたいと言えばベットを起こし、眼鏡を掛けてあげたり、暑いと言えば扇子で仰ぎ、(早い、もっとゆっくり仰げと言われたのは私)
精一杯、見送った。
私のようにドジでどこか足りない嫁でも、お父さんはいつも笑って「大丈夫だ」と言って許してくれた。
優しいお父さん。
もっと、一緒に居たかったです。
お父さん、どうもありがとう。
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